平和な日本・・・ 「足るを知る」

 

 

 こんにちは。

占いCafe&Bar黒ねこさんのブログをご覧下さいまして誠に有難うございます。

2022年8月15日の今日は77回目の終戦記念日です。

 

大正生まれだった母は神戸大空襲を経験して、空襲警報が鳴り響くとアメリカ爆撃機のB29から焼夷弾が「バリバリバリ!」という音と共に沢山空から振って来て逃げ回って防空壕に身を隠した・・・

と話してくれた時がありました。

 

                          けれど小さかった私は戦争の話を聞いても実感が 沸かず、ただ「戦争のない時で良かった」と思っていました。

 

今日、ネットのニュースを見ていたら戦争にまつわる話がありました中で、

「婦人公論.jp」で綴られていた話を見て、戦争というのはこれだけ悲惨だという事を

後世に残さなければいけない!と思い、下記に引用させてもらいました。

ショッキングな内容ですが、隠してはいけない真実なのです・・・

 

 

 

サイパンで見た戦争の悲劇。補給なき日本軍は泣く赤子を黙らせ、

母親は「自分の子は自分で」とカミソリを当てた〈書き残す戦争の真実〉

8/15(月) 12:31配信

 

2022年8月15日は、77回目の終戦記念日です。戦争を知る世代が高齢化し、生々しい戦火の記憶が薄れつつある日本。一方、世界に目を向ければ、ロシアのウクライナ侵攻のほか、紛争が長期化している国もあります。戦争がもたらすものは、どれほど悲惨なのか。食料や水にも困窮し、敵の攻撃から逃げまどった日々。無念のなかで命を落とした人たちの面影――。忘れられない記憶だが、誰にも話したことはないという、森本佐知子さん(84歳)が幼少期にサイパンで経験した悲劇とは。

 

 

◆南洋の小島の洞窟に身を潜めて

幼い頃、父親の仕事の関係で、家族でサイパン島に住んでいた。私は日本人小学校に入学したが、教科書も見ないうちに校庭に爆弾が落ち、戦争が始まった。

海のほうからドーンと音がして、艦砲射撃の砲弾が飛んでくる。父母に連れられ山に向かって逃げ、藪の茂みを短刀で切り払いながら進む。足元には死体が転がっている。小さな島で、高い樹木がないため、身を隠すところは洞窟しかない。

当時、島には水道がなく、雨水を使っていたので、飲み水を求めて外を出歩いて命を落とした者も多かった。雨が降ると、木の葉っぱや幹に水滴がつく。それをなんとか舐めようとするのだが、死体から飛び立ったおびただしい数の蠅が葉や幹にびっしり張りついて、人間より先に貴重な水を飲んでしまうのだった。

あるとき、「日本の船が来た」と聞いて薄闇のなかを海岸へ向かう。沖に見える船まで泳がねばならないというので、崖から多くの人が飛び込んだ。

泳ぎが得意な母の背中で飛び込む順番を待っていると、突然、バッと照明がついて、ダダダダッという掃射音が響いた。崖の下をのぞくと、先に海に飛び込んでいた人たちが波にのまれて浮いていた。

 

その後、父とはぐれてしまい、母と二人で新たな洞窟にたどり着く。何組かの家族が先に入っていて、仲間に入れてもらいほっとしていた。そこへ、日本からの補給が届かず、武器を持たない日本兵が逃げ込んできた。

アメリカの爆撃機が近づくたび、みんなビクビクしていた。洞窟の近くに爆弾が落ちると、入ってくる爆風によって気絶したり死んだりする者が出るからだ。

赤ちゃんや子どもが食べ物や水がほしいと泣く。すると日本兵が「敵機に子どもの声が聞こえると危ない」と言って、泣いている子から順番に座布団の下に敷いていった。泣き声が消えた。日本兵のすることなので、みんな見ているだけだった。

そのうち一人の母親が、自分の子どもは自分でやるとカミソリを子どもに当てるのを見て、母と私は洞窟を出た。

隠れるところがなく、さまよっているうちに、幼稚園で仲良しだった友達とその家族に出くわした。「手榴弾で自決する」と言う一家と別れて、母と歩を進めていく。しばらくすると後方の友達一家がいた辺りで爆発音がした。

その音を聞きつけたアメリカ兵に、母と私は見つかってしまった。日本語が話せる兵士によって捕虜になり、私たちの命は助かった。

 

 

◆目撃した光景を話すことができなかった

 

抑留生活から解放され、母と帰国。戦後40年くらいたった頃のこと。女友達との旅行中に立ち寄ったスナックで、軍歌ばかり唄っている男性がいた。理由をたずねると、「自分は軍人だった。生きて帰れなかった仲間を思うと軍歌しか唄えない」と話してくれた。

「私はサイパン島からの引き揚げ者です」と伝えると、兵士でも生きて帰れないとされた場所からどうやって帰れたのか、と信じられない様子。彼も兵士としてサイパン島にいたのだ。

「16歳という若さで戦地に送られ、飢えと渇きに苦しんだ。死にゆく先輩から、『自分の肉を食べて生きて日本に帰れ』と言われて、人肉を食べて、いまここにいるのです」。妻や子どもにも話していないと言う。私は、日本兵が赤ちゃんにしていたことを話すのをやめた。

忘れられない記憶だが、誰にも話したことはない。戦争の話を嫌がる人もいる。でもこの年になって考えが変わり、今回初めて書きとめた。

常々みんなより長生きしているのだからと思ってきたし、がんと診断された際もとくに落ち込むことなく明るい私を見て、医者が驚いていた。

島で別れた赤ちゃんや子どもたちは、いまどこで何をしているだろう。きっとアメリカか日本のどこかで生きている、と思っている。

 

 

ここからはコメントです。

 

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 教授

 

サイパンとテニアンには、3万人以上の日本人が住んでいました。南洋興発という国策会社があり、サトウキビの栽培や製糖にあたっていたのです。沖縄や福島などから移住していました。1944年6月から7月にかけてサイパン、テニアンに米軍が上陸して、絶対国防圏と位置付けていた日本軍は徹底抗戦、住民も巻き込まれました。テニアンでは、上陸前に軍幹部の講演で、捕まれば残虐に殺されるなどの話を受けて住民は米軍への恐怖心を高めていました。ドキュメンタリーの取材を受けた福島出身のある男性は、逃げ込んだ洞窟の中で母親と妹を銃で殺害したことを涙ながらに語ってくれました。その直後に自らは死にきれず捕虜になり、米軍の収容所に入りました。日本人は、1941年初頭に東條英機陸相が示達した「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」を正面から受け止めて、その結果集団自死、家族の殺害という取り返しのつかない悲劇が起きたのです。

戦争を知らない世代に向けて、表現を柔らかくしたりぼかしたりする風潮がありますが、逆だと思います。

いかにひどいことが行われていたか、戦争とは加害者にも被害者にもなることをしっかりと伝える必要があると思います。

 

 

 

広島の原爆資料館も改装して表現が少しマイルドになっていますが、事実は事実で確実に後世に伝えるべきです。展示が過激だと目をそらす方が間違っているように思います。

そうでなければ平和を思う気持ちに陰りが見え、歴史を繰り返すことになりかねません。

終戦記念日の今日、広島の空はまるで先人達が哀しい目でこちらを見ているような空模様です。

 

コメントは約80件以上ありましたが、どれにも「戦争の悲惨な事実を後世に伝えていくべき

というものでした。

 

ある後進国で幼い子供にインタビューして「大きくなったら何になりたい?」の答えに

生きていたい」と答えたという記事も見ました。

その一言に、どれだけ真剣に「生きる」を願っているのかと、胸をしめつけられるように感じました!

戦後70年間で戦争をしていない国は8か国しかなく、アジアでは日本以外はブータンだけだそうです。

 

 普通に毎日を送れることがどんなに尊いか・・・

 

古典哲学の言葉に老子の「足るを知る」があります。

これは「現在の自分の状況に満足する、今目の前にあるものに対して感謝する」という意味です。

今の日本は平和で衣食住に恵まれているだけでも尊く有難いのです。

よくある恋愛相談、仕事の相談などは「足りている中での悩み」だと意識しますと、

もう少し心に余裕を持てるようになるかもしれません。