「本質」を見失った言動が多くなった世論

こんにちは。

占いCafe&bar黒ねこさんのブログをご覧くださいまして、

誠に有難うございます。

 

ずいぶんと長い雨が上がった後は、また厳しい残暑が続いています。

「自然」は恵みと厳しさを教えてくれます・・・

 

8月24日にBPO(放送倫理番組向上機構)の青少年委員会が9月より「痛みに伴う事で笑いを取るバラエティー番組」の審議を行うとしたそうです。

 

熱湯風呂、熱々おでん、激辛料理などお笑い芸人が「痛み」を感じて視聴者が笑う事に対して、

「不快だ」とか「いじめを増長させる」などの声が上がって、そういうのになったそうですが・・・

 

これで大晦日に放送されるダウンタウンの「笑ってはいけない」が審議入りか?と物議を醸しだしています。

笑った罰としてケツバット、キツイのはタイキック炸裂でめちゃくちゃ痛そうです。

それがウケて笑う番組で、私も必ず大晦日の名物番組として楽しみにしていますが、なくなるのかなぁ~?

昔はドリフターズやチャンバラトリオ、多くの芸人がメガホンやハリセンで頭を叩いてツッコミをして笑いを誘うという事で「お笑い」に大きく貢献してきました。

 

これぐらいの時が一番良かったのかもしれません。

今は「過度」になってどんどんエスカレートし、

今度はそれに「敏感に反応」して少しでも不安になると

「やめておきましょう」になる。

1つ引っ掛かると、それに紐づけて「じゃあ、これは?」となり、

「それもだったら、これもそうですね。」とドンドン広がって、

「本質」からずれてしまい、他の方向へ曲がっているのに気づかない・・・

 

極端に物を捉えてしまう傾向が世間一般の考え方に陥ってしまってると感じます。

 

最近の話題ではオリンピックやパラリンピック。

そっちをするのなら、「修学旅行は中止にするのはおかしい」だとか、

「開催するのなら、子供に一生に一度だから、見に行かせたい」とか。

 

気持ちは分かりますが、世界的な大会と学校の行事と比べるのが、

そもそも比べようもない話だと思わないのでしょうか?

 

開催も直接観せたいのも分かりますが、コロナ感染で子供の命を危険にさらす可能性があるのに、

それでも「直接観せたい」を優先する程の重要な必要性を感じているのでしょうか?

大人は自己責任で行動するのは仕方ないとしても、子供は判断しづらいでしょう。

「本質」からずれているのに、多くの人がそれに賛同しています。

 

 

何がOKで、何がダメなのか見極めが難しくなっていますが、

「本質的に」物事を考えたら、解る事だと思います。

 

「本質」とは、「物事の根本的な性質・要素で、そのものの本来のなくてはならない要素・存在」です。

 

恋愛に関しても「不倫」をすると、凄く責め立てます。

芸能人は記者会見をすると「謝罪しろ!」と世間に謝っていますよね。

 

しかも「何分頭を下げた」とか記事に書かれています。

 

謝罪を世間にするものですか?

何分頭を下げたら「誠意」なんでしょう?

 

焦点からずれている事に気付かず、繰り返し報道されます。

質問する記者の皆は「清廉潔白」なのでしょうか?

全員が全員「不倫」をした事がないとは、到底思われませんね。

 

そもそも結婚が一生もんになったのは、明治末期との事です。

世界でも一夫多妻制の国は沢山あります。

特にアフリカ大陸に多いです。

 

人の本能として「種の存続」がある限り、強くて優秀な人に惹かれるのは当然ありでしょう。

とはいえ、一夫一妻制になっている日本で「不倫」(人の道に外れて不道徳なこと)とされてしまいます。

 

「不倫」という言葉はなんと、1983年に放送の「金曜日の妻たちへ」が語源だそうです。

それまでには「浮気」、その前には1957年に三島由紀夫作の「美徳のよろめき」から

「よろめき」と言われていたそうです。

 

「不倫」という言葉には「倫理に反する」というイメージで、社会的問題に発展してしまい、

結果としてマスコミが騒ぎ、行った本人を吊るし上げる・・・

これも現代の過ぎる主張から「本質的にずれている」感じがするのは、私だけなんでしょうか?

 

お客さんが相談に来られた時に仰いました。

「僕は僕で、男としてでなく女としてでもなく、一個人でありたいんです」

 

ジェンダーレス(男女の区別を無くす)、男女の差別をなくそう!の考え方で

よく聞く言葉ですが、「本質的」に言えば言葉の使い方が間違っています。

区別をなくすであって男でもなく女でもなかったら、人ではないのです。

細かい事を言うなと思われるでしょうが、正しい使い方は、

男でもあり女でもある」ですね。

 

でも、その精神は解りますが実際に男女の区別を無くすのは不可能でしょう。

男(オス)としての役割、女(メス)としての役割があって「生物」として種が存続しているのですから。

 

自然界では「オスでもなくメスでもない」生物は存在しません。

人間だって「自然の理」に抗ってその先に「存続」の未来はありません。

 

性同一性障害は「個人的」なものです。

個人なら自由にしてもいいでしょうが、それを国に認めさせようとし、

「国」が認めるのは「本質的」ではありません。

 

現代は「自由の自由を求め過ぎている」、無秩序を生み出している事に気付くべきです。

 

 

スピリチュアルでは「風の時代」になりましたと、強く主張していますね。

 

「今までの価値観・常識が通用しない」

「好きなことをやっている人の方が生きやすくなっている」

 

皆が皆、自己主張をして好き放題をやっていたら、世の中は崩壊してしまいます。

 

今の人達は「物事の本質を解るようになる」為に、もっと「東洋の哲学」を学ぶべきです。

「東洋の哲学」は三千年前に作られ、今でも立派な人格者や経営者が深く学ばれている貴書です。

 

哲学の「哲」には「道理に明るい」「覚る」「賢い」という意味があります。

人間の「本質」、自然界の「本質」は何千年、何万年経とうが変わらないのです。